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子どもを産んで、産科医になる
一人っ子の長男は今年20歳になった。ひょろりと背の高い大学2年生。時間がたっぷりあることこそが何よりの財産だなど、まるで気が付かない様子で、自由気ままに、青春を謳歌している。

彼が生まれた当時、私は大学院博士課程を修了したての地球化学の研究者の卵だった。望んで選択した専門だったし、研究者として仕事をしていきたいと思ってもいた。けれど、学業の続きとして何となく大学院に進学し、何となく研究を続けていた側面も否めない。

そんな私のところへ、子どもは突然やって来てくれた。

実家に近い地方都市で、伯父が産婦人科を開業していた。私も弟もそこで生まれた。

当時の私も、お産にはさまざまな形があるらしいことを、まるで知らないわけではなかった。たとえば、朝日新聞連載の藤田真一さんの「お産革命」、中でも、立川の助産婦・三森孔子さんの話は、大学生の私に強い印象を与えた。けれど、私にとってそういうお産は現実的選択肢とはなり得ず、東京で健診を受け、実家に帰って伯父のところで産むことを迷わなかった。「誰でも産んでいるのだから、私も産めるだろう」、そんな気持ちだった。

健診は近くのこじんまりした総合病院に通った。優しい女医さんがいらっしゃったが、健診が必要だと思えなかった私は、2ヵ月以上平気で行かなかったりした。診察室のカレンダーには、赤ちゃんが生まれた印が書き込んであったが、平日ばかりだった。医師2人の体制で分娩誘発を行っていたのであろう。その施設の産科は閉鎖されて久しい。

妊婦が太りやすいことも、過度に太らないほうがよいことも知らず、体重は13kgも増えた。後期には尿糖も出て、糖負荷試験も受けた。

予定日の頃、陣痛が始まった。いま思えば順調な進行だったが、「まだまだね」と1人りで放っておかれたつらさは、忘れることができない。手術室も兼ねた大きな部屋の隅に置かれた平たい分娩台に仰向けに寝かされ、陣痛促進剤を筋注され、馬乗りになった看護婦さんにお腹を押されて、子どもは生まれた。驚愕と恐怖と、それから一体何だったのだろう。生まれた感動はなく、ようやく終わったことだけを感じていた。産後は、切れた会陰の痛みと、おっぱいの張る痛みに苦しんだ。「これじゃない」と思った。

あのとき「お産なんてこんなもの、仕方がない」と思えていたら、今の私はいない。桶谷式との出会いもあった。おっぱいを飲ませながら、考え続けた。考えれば考えるほど、これじゃないと思った。お産のときは、誰かにそばにいてほしい。仰向けで空に向かって産みあげるのはおかしい。会陰とおっぱいの痛みさえなければ、お産後のつらさなんて、10分の1になる。人間の子には、人間のおっぱいを。そんなことを考え続けた。

そして、子どもが1歳半を過ぎた年明け、産科医になろうと気持ちが決まった。私が次に産みたい施設がないのなら、産科医になって、そんな施設を作ろう。その春、医大の2年に編入、働いているはずの年齢での学生生活は世を忍ぶ仮の姿と自分に言い聞かせた。医学部での勉強はおもしろく、基礎医学、臨床医学と学べば学ぶほど、思い描くお産の形は鮮明になった。

小学校から数えると27年間の学校生活を経て、ようやく就職。5年間で5ヵ所の病院に勤務させていただいた。臨床の現場でお産に接し、自然なお産をとの思いは、さらにつのった。

5年目に勤務を辞め、自宅出産の出張介助で開業。2年後、入院施設を持つ小さな診療所を開いた。そして、助産師たちと共に夢中でお産に向き合うち、8年目の夏が過ぎた。

私の仕事の原点は、私自身のお産である。産科医としては、まだまだ駆け出しなのに、あの日から、もう20年が過ぎてしまった。長い年月であったが、あっという間の時間でもあった。仕事は嬉しいこと以上につらいことが多いが、いま、私自身が願っていたお産をお世話できている実感がある。

この間、産科医療を取り巻く状況は変貌を遂げ、さらに急速に変化しつつある。自然なお産を望む人は少なくないが、支える手は決して十分とは言えない。ふつうの人がふつうに幸せになることができるお産の場を次の世代に伝えたい。

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