明日香医院
大野明子の著作など インタビュー記事 > 子どもを産むということは、「いのち」を産む〜
子どもを産むということは、「いのち」を産むということです
●いのちは授かるもの

生殖技術について考えるとき、「いのち」に対する思想や哲学を持ち、思索することが現代では忘れられがちであると感じます。ひとりの人が生まれるということは、自然のいのちの営みであり、そこには、私たちが超えてはいけないもの、やってはいけないこと、私たちが律しなくてはいけない自分、いのちの摂理とでもいうべきものがあります。

体外受精は今ではあたり前のように行われています。残った受精卵を凍結させて数年後に2人目の赤ちゃんを産むこともできます。さらに、特定の精子を選んで卵子に注入する顕微受精や、かつては治療ができないとされていた無精子症の男性に対しても、精巣から未熟な精子を取り出して成熟させる方法も開発されています。閉経後の女性が他人の卵子を使って体外受精をすることや、受精卵を他人の子宮に戻す借り腹などの方法もあります。

こういった技術は、不妊に悩む人たちには福音でしょう。けれども、不妊治療の技術があるからといって、疑問もなくあたり前のようにそれを選択してよいのでしょうか。また、不妊治療を行う医療者は、子どもを望む人がいれば、どこまでも技術を開発し続けるのでしょうか。いのちは作るものでしょうか。「いのちを授かる」という感覚の欠如は、いのちに対する畏れの感覚の欠落につながると思います。

一昔前であれば「できないのなら、仕方がない」と不妊の事実を受け入れることができたのに、今はそれが難しくなってしまいました。技術のある不幸だと思います。

ところで、最近、体外受精による妊娠には分娩時の異常が多いことがわかってきました。それは何を意味するのでしょうか。私は、ふつうはこの世にいない赤ちゃんがいのちを受けて生まれてくるためには、乗り越えなくてはいけないハードルがあり、それがお産のときにも存在すると理解しています。


●人は必ず死ぬ

生まれてくるということは、100パーセント死ぬということです。だから、いのちに対して、「死んではいけない」という価値観をもつことは、本質的に無理です。

たとえば、80年代の半ばごろ「脳死と臓器移植」がさかんに議論されました。当時医学生だった私は、たくさんの書物を読み、考えました。人の臓器までもらって個のいのちを継続することに、どのような必然があるのか、少なくとも私自身はその選択はしまいと思ったのです。

もちろん、病気を持っている個々の人にとっては、そんなふうに割り切れるものではないでしょう。たとえば、移植の必要な重大な心疾患の子どもが1歳で死ななくてはいけないというのは本当にかわいそうで、なんとかできないかと奔走する親の気持ちはよくわかります。私も親であれば、子どものために、そのような努力をするかもしれない。けれども、そこにはやはり相当の無理があるので、そういういのちとして生まれてきたことを、どこかで受け入れていくほかないのだろうと思うのです。
1 / 3

copyright © 2003-2011 birth house ASUKA, All Rights Reserved.