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命を奏でる映画「地球交響曲第五番」
大野: ですから、映画撮影という話になったときに私は結構渋ったんです。「カラーは嫌だ」とか、「動画はダメ」とか、「宮崎さんのスチール写真を流したらどうですか」とか。ずいぶん失礼なことも言ったと思うのですが(笑)。

龍村: いえいえ、私には先生のおっしゃることの意味がちゃんとわかりました。ムービーというのは、現象を刻一刻と時間の流れるままに記録していくものです。しかし、そのように流れていく「時間」とは違ったものを表現するためには、スチール写真のほうがよいこともある。現象をそのまま記録して「珍しいものを見た」というのとは異なる、命とか、命を想う心とか、喜びとか、そういうお産の背後にあるものを表現するのに、必ずしもムービーは必要ないわけです。先生は映像の本質的なことをおっしゃっていたのだと思います。

だから、私は最終的にムービーがダメならそれでもよいし、高画質記録用のカメラを持ち込むこともない。小さいカメラで、万が一宮崎さんが録画に失敗してしまっても、それはそれでよいという、そういう気持ちでした。極端な話、映像がなくたってよかったんですよ。


”撮らない”という選択

龍村: 「地球交響曲第三番」の星野道夫という写真家の話なのですが、彼は北アメリカに生息するカリブーの写真を撮るために、ツンドラの雪原でその群れがやってくるのを待った体験を振り返っています。春先の風や、大地のにおいを感じながら、大自然のなかで静かに待ち続けていたら、ふと気づくと、カリブーの群れはすぐそこまで近づいていた。ところが、彼のカメラは少し離れたところにあって、撮影するには、それを取りにいく必要があったんです。

プロのカメラマンの姿勢として、カメラを取ってきて、しっかりとカリブーを撮影するというのが1つのあり方だと思います。しかし、彼は「ここで自分が動いたら、群れの動きを乱してしまう」と直感して、じっとカリブーが通り過ぎるのを見守っていたのだそうです。

撮るべきものがそこにあって、撮るべき瞬間が確かに目の前にある。けれども、そこにある「場」を乱すくらいなら、あえて撮影にこだわらない。星野はそちらを選択したんですね。

写真は残りませんでしたが、後に、彼は手記のなかでカリブーの群れがすぐ傍を、コキコキと関節を鳴らしながら、そして時々、伏せている星野に顔を近づけたりしながら、通り過ぎていった光景を回想しています。私はこの星野のあり方、位置を、正しいと思うんです。

今回のお産のシーンに関しても同じで、決定的瞬間を撮ることがすべてではありませんでした。私がムービー未経験の宮崎さんにお産のシーンの撮影をお願いしたのは、宮崎さんがお産の「場」に入ることに違和感を覚えなかったし、むしろお産が好転するような気がしたからです。彼女は、お産の営みのなかにあるもっとも大切なものをきちんと表現できる写真家であることを私は知っていましたからね。
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